恩師に導かれし21年

福るん日記

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こんにちは、福るんです。

あっという間に3月ですね。今週に入って春はもうすぐそこまでやって来ているなぁってひしひしと感じておりますが、3月は卒業、別れの季節でもあります。昨日、私も21年間お世話になった松本忠美名誉教授に退職のご挨拶をさせて頂くべく、氷見市民病院まで車を走らせました。
ふと気がつけば、春の陽気を感じる車窓に眼をやりながら、松本先生と辿った21年間の軌跡に思いを馳せていました。

 

 

私が入局したのは松本教授が金沢医科大学整形外科に来られた2年後の2001年4月であります。ちょうど5年生のBSL (bed side learning) で整形外科を回ってきたときが松本先生の教授就任の年であったと記憶しています。将来何科に進もうか少しずつ考え出したのもちょうど5年生でBSLを回るようになったこの頃で、その当時考えていた科は心臓血管外科、麻酔科、小児科などで整形外科など全く眼中にありませんでした。そんな私が整形外科医を志すきっかけを与えて頂いたのが他でもない松本教授の他愛もない一言だったのです。その決め手となった一言とは…

「外科は外科でも消化器外科なんか、がん患者さんばっかりやし、小児外科みたいなんもなぁ、かわいそうでわしには無理やなぁ。その点整形外科はええど。患者さんはみんな良うなって我々に感謝して帰ってくれるしなぁ。それにな、これから高齢化社会で年寄りばっかりになったらどうなると思う?腰痛い、膝痛いっていうお年寄りばっかりになるやろ。つまりどういうことか。世の中は需要と供給で成り立っとるんや。ということは整形外科医が必要とされなくなることはないっちゅうことや」。

このとき私は、この人はなんて正直に包み隠さず何でも言う先生なんだろうかと思うと同時に、これから自分が歩む長い医者人生が恰好のいい理想や夢だけでは生きていけないという現実の厳しさみたいなものを目の当たりにしたような気がしたのです。

こうして整形外科医を志すことを決意した私は2001年、晴れて医師国家試験に合格し、金沢医科大学整形外科に入局しました。もともと整形外科に学問的興味は全くなかったので、特段したいことがあったわけでもなく言われるがまま働き始めた私でしたが、3年目に北陸中央病院出向から戻った折り、学位のテーマを決めることになったのですが、その時松本教授がライフワークとして長年されてきた大腿骨頭壊死症の病態解明のことを知り、初めて学問的興味をそそられました。そこでこのテーマで学位を取らせて頂きたいと懇願したところご快諾頂き、解剖学教室の篠原教授指導のもと研究を行うこととなりました。その2年後、整形外科医になって5年目が終わろうとしていた頃、その学位論文がなんと学長賞を頂けることになったのですが、そのことが決まった日のことは生涯忘れることはないと思います。その日の夕暮時、松本教授と一緒に本部棟と臨床棟を結ぶ連絡通路を歩きながら、何気なく窓から見える景色に目を配ったところ、視線の先には七色の神々しい光を放つ虹が医科大全体を優しく包むように佇んでいました。それまで無言で本部棟から医局までの帰路を歩いていた松本教授がそれを見て一言、「福井、虹が出とるぞ。よかったなぁ、またきっとなんかええことあるぞ。」と呟かれた光景がつい昨日のことのように瞼の裏に浮かびます。その年の暮れ、12月10日に私は松本教授夫妻仲人のもと、結婚式を挙げることができました。あの時言われた“ええこと”というのはこのことだったのだと確信しています。

学位のテーマが股関節に関連していたこともあってか、私は知らず知らずのうちに松本教授に導かれるかのように股関節外科の道を歩むようになります。5年目の終わり頃から松本教授の患者さんを多く受け持ちさせて頂くようになり、手術も松本教授から直々に教えて頂く日々が続きました。思えば8年くらい続いたでしょうか。今でこそ怒られなくなりましたが、その当時と言えば、手術中の松本教授は人が変わったように私のことを叱りつけていました。「今日はお前とはバイオリズムが合わない。」と言って筋鈎で手の甲を叩かれながら怒鳴られたこともありました。本当に怖かったし手術が終わったときには必ずと言っていいほど自暴自棄になり、正直どうしてあそこまで言われなくてはいけないのかと腹立たしく思ったこともよくありました。しかし今こうして松本教授とともに歩んできた21年を振り返ってみて、あの当時の複雑な思いとは裏腹にあの厳しすぎるほどの指導、匠の技の伝承があったからこそ今の自分があるのだと、自分だけで手術をさせて頂けるようになった今、やっとあのつらかった日々をそう思えるようになった自分がいることに気が付きました。今現在、松本教授の人工股関節置換術における秘技とも言うべき匠の技を最も忠実に受け継いでいるのは自分しかいないと思っています。

最後にもうひとつどうしても述べておかなければいけないのがアメリカ留学です。松本教授が病院長になられ大変お忙しい最中に、1年間のアメリカ留学というおそらく人生で最も素晴らしく、そしてかけがえのない夢物語を味わわせて頂いたのも松本教授であります。アメリカでの生活は私の価値観に大きな変革をもたらしてくれました。儚い人生で最も大切なもの、それは紛れもなく“家族”であることを教えてくれました。

人生の節目、節目には一期一会とでもいいましょうか、必ずその後の人生を左右する特別な“ひと”との出会いが存在し、その特別な出会いには言葉や科学では説明できない神様の悪戯としか言いようがないような不思議な糸、運命のようなものが介在していると私は信じています。これまでの私の人生を大きく左右した特別な “ひと”、それは中学、高校時代の親友で医師になるきっかけを与えてくれた神童、松本良平君(現精神科医)、生涯の伴侶となってくれた妻、そして整形外科医の道へと導いてくださった松本忠美名誉教授だと思っています。

 

ご挨拶に伺う前は、怒られるのではないか、、、と少しドキドキしていたのですが、開口一番、「福井、長いこと、ようがんばったな。お疲れさん。」と言って頂きました。
そして、しばらくこれまで21年間の思い出話をさせて頂くなかで松本先生から、
「これまで、たくさん怒ってわるかったなぁ、ごめんな。でもな、お前のことをいじめてやろうと思って怒ってたんとちゃうぞ。お前を一人前の医者としてどこに出しても恥ずかしくないように育ててやりたいと思って怒っとったんだけはわかってほしい。」
と頭を下げられたとき、そんなこといわないでくださいって申し訳なく思うと同時に、褒められたことは恐らく一度もなかったし、怒られてばっかりだったけど、松本先生に付いてきてよかった、21年間の大学人生、間違ってなかった、これでよかったんだって、そう思えました。

そして最後に、
「福井、心配すんな、お前は大丈夫や、何も心配ない。わしが保証してやる。でっかい借金かかえて不安でしょうがないと思うけど、お前なら大丈夫。これまでどおり、しっかり患者さんに向き合って真摯に治療していれば、患者さんは必ず付いてきてくれる。心配するな。体だけ壊さんければ大丈夫や。無理して体壊すな、それだけや。お前は大丈夫。がんばれ。」
自分の心の中を見透かされているようで、思わず涙がこぼれ落ちそうになりましたが、グッとこらえながら最後に松本先生としっかり握手を交わしてその場を後にしました。最近ずっと不安で胸が押しつぶされそうになることばかりでしたが、松本先生からこのように言って頂けたことで、一瞬で重くのしかかっていた重圧から解き放たれるようでした。

松本忠美先生、思えばあっという間の21年間でしたが、先生の弟子であったことに一片の悔いもございません。誇りに思います。私を股関節外科医の道にお導き頂き本当にありがとうございました。先生から教わった人生哲学を胸に、これからも自分が正しいと思う道を突き進みます。

「万事謙虚にして驕らず」

松本先生もお体大事にずっとお元気でいてください。
長い間、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 

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