米国Steadman Philippon Research Institute留学記    (前編)

福るん日記

こんにちは、福るんです。

 

これは私が2013年12月から1年間、アメリカ留学させて頂いたときの留学記です。金沢医科大学報No.162に掲載されましたが、多くの方から、「先生の留学記読んで感動した、良かったよ」という声を頂きました。金沢医科大学報は基本的に金沢医大の職員、関係者しか読まないものですので、一般の方の目に触れることはほとんどありません。今回、当院のブログにこの記事を上げたのは、当院ホームページを訪れて頂いた方に、私の人となりが少しでも伝わればという思いからです。医師の海外留学がどのようなものかも知って頂けると思います。是非ご一読ください。

 

 

ちょうど卒業して7年が過ぎ、整形外科専門医を取得した頃ではなかったでしょうか。私の中に漠然と留学したいという気持ちが芽生えたのは…思い返せばおそらくもっと以前から、短い人生で一度は母国を離れ海外での生活を経験してみたいという気持ちがどこかに存在したのではないかと思いますが、それを現実的な夢として捉えるようになったのがその頃ではなかったかと思います。年齢にして30歳を迎え、私生活では結婚もして子供も授かった折り、そのような思いから最初に思いついたのが英語を勉強しなければならないということでした。その当時、上司で医局長をされていた藤田拓也先生(現在、かほく市で藤田整形外科クリニックを開業されています)に相談したところ、英語の勉強方法のみならずプライベートレッスンをしてくれる英語教師まで紹介して頂き、英語の勉強を始めました。

振り返れば初めてそのプライベートレッスンをしてくれるアメリカ出身の英語教師と出会った時、自分の思いとは裏腹に自分の英語のしゃべれなさに愕然としたことを思い出します。当科では誰もが留学したいと手を挙げれば行かせてもらえるというような甘いものではないことは先輩を見ていてわかっていました。ではどうすれば留学のチャンスは巡ってくるのか?その答えは英語論文をできるだけたくさん書くことにあるだろうと考えた私は、日常生活で必要な英語を勉強すると同時に、日常診療の忙しい合間を縫って英語論文を書き始めました。今思えば、この頃まだ子供が小さくて大変な時期であったにも関わらず、家庭を顧みずにこのようなことに打ち込んでしまい、妻と長女には大変つらい思いをさせてしまったと申し訳なく思っています。英語論文の書き方に関しては、学位取得で大変お世話になった解剖学の篠原治道教授に学位の実験中に医学英語論文のいろはを懇切丁寧に教えて頂いたおかげであまり抵抗なく書き始めることができました。そして36歳になった頃、気が付けば7本の英語論文を書き上げていた私の目の前に、突如としてそのチャンスは舞い降りてきたのです。

それは今思えば偶然のようで実は必然であったのではないかと思えてなりません。平成24年夏、以前よりお世話なっていた産業医科大学若松病院の内田宗志教授が私の患者さんの手術をするために北九州より遠路はるばる来て下さったことがありました。内田先生は股関節鏡視下手術を今の日本に急速に普及させたスポーツ整形外科医で、関節鏡手術のファンタジスタと呼ばれるくらい関節鏡を使った手術をさせれば右に出るものはいない関節鏡手術が大変上手な先生です。これまで原因不明とされていた一次性変形性股関節症が実は原因不明ではなく、FAI (Femoroacetabular Impingement、大腿骨寛骨臼インピンジメント)が原因であるとベルン大学のGanz教授が提唱し、その概念が日本にも認知されはじめたばかりの頃に、私も何故だか自分でもよくわかりませんがこのFAIという概念に非常に惹かれるものを感じ勉強するようになりました。その結果、巡り巡ってこの内田先生と出会うことになった訳でありますが、その内田先生が当科に来られた時に何気なく留学先の相談をさせて頂いたところ、間髪入れずに私の留学先となるThe Steadman Philippon Research Institute のMarc Philippon先生にメールをして下さり、トントン拍子に話が進み、あっという間に1年間の留学が決まったのです。

Philippon先生と言えば私にとっては雲の上の存在で、FAIについて勉強するようになった頃からPhilippon先生の名前は論文等でよく存じ上げていましたが、まさかこのような御高名な先生のところに私のようなしがない無名の整形外科医が留学できるなんて夢にも思わず、決まったときはしばらく信じられないくらいでした。しかしこれで留学が決定した訳ではありません。実はその時点ではまだ当科の松本忠美主任教授に留学の許可を頂くという一番肝心な部分をクリアできていなかったのです。一生に一度あるかないかのチャンスを頂いた私は、是が非でもこのチャンスを逃すわけにはいかないと思い、松本教授にこの思いの丈をぶつけたところ、これまでにしてきた英語論文の努力などが報われたのか、医局員が少なく大変な時期であったにも関わらず私の切なる願いを受け入れて下さったのです。こうして私の夢が現実のものとなって動き出した訳でありますが、実際に2013年12月1日から留学がスタートするまでにはこの他にも様々なトラブルが私に襲いかかって来ました。そのひとつがビザです。それまでビザのことなんて全く知らなかった私ですが、何とかなるだろうと甘くみていたらとんでもない、出発する直前にかろうじて何とか取得することができるという事態に陥ってしまったのです。詳細は割愛させて頂きますが、折角つかんだチャンスもビザのせいで失ってしまうのではないかと思うくらい本当に焦り、そして悩まされ眠れない日が続いた記憶が蘇ります。

そしてもうひとつはPhilippon先生の秘書であるLinda Chaseさんとのやりとりです。留学が決まり細かいやりとりは秘書のLindaさんとするよう内田先生から言われていました。いきなりemailを送るのは失礼にあたると考えた私は、まずは日本風の洒落た便箋を使って書いた手紙と履歴書をair mailで送ったのですが一向に返事がなく、次にemailを送っても何の音沙汰もないという状態が3か月くらい続いたでしょうか。とても焦った私は内田先生に再度ご相談させて頂きました。その相談を受けて内田先生がLindaさんに連絡して下さったところ呆気なくLindaさんから私にemailが届くということがありました。これは後々にわかったことですが、Lindaさんのところには毎日数えきれないくらいの研修依頼や手術見学依頼の手紙やメールがアメリカ国内は勿論のこと、世界中から届くようで、その多くは見られることなく捨てられてしまうという事情があってのことでした。因みにLindaさんの名誉のために言っておきますが、Philippon先生の専属秘書であると同時に9人の子の母でもあるLindaさんは会ってみると非常に親切な方で、私のために住まいを探してくださったり、車を買うときわざわざ付いてきてくださったりしました。ある夏の日にはLindaさんの家にバーベキューに呼んで頂いたことがありましたが、本場の家庭的なアメリカンバーベキューを味わうことができ留学中の良き思い出となりました。

こうしてさまざまなトラブルに見舞われながらもついに、平成25年12月1日より1年間の夢の留学生活を何とか無事スタートさせることができたのであります。前置きが長くなりましたが、ここから私の留学生活について報告させて頂きたいと思います。

 

(後編) に続く…

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